経歴

 

今まで何をやってきて現在があるかを簡単に書いておきます。

経歴全般に関しては阪大のホームページの研究者総覧を参照してください。

話は

東工大時代

BNL時代

阪大時代

研究以外

 

 

大学院時代

大阪大学理学研究科物理学専攻の江尻研究室に所属していた。江尻先生は教授になりたてで、今思えばひたすら元気だった。当時の阪大には高エネルギー物理学の講座がなく、原子核物理学に非常に基礎的な匂いを感じていた。研究は、原子核反応の中で比較的理論的枠組みがしっかりしていた複合核反応(入射粒子は原子核中の強い相互作用で全ての核子が統計力学的に決定される励起状態を占める)と直接反応(入射粒子がある状態にスポンと納まる)の2つの反応の中間にある前平衡状態が中心であった。非常に現象論的な研究で、実験結果が最優先する分野だった。基礎的な研究を行っている現在からは当時なぜそこまで熱心に研究していたか分からない面もあるが、とにかく燃えていた。夕方から始まったミーティングが夜12時になることも頻繁だったし、3~4日の徹夜実験の終わった朝に次の実験の相談をしていることもあった。そこまでやるのと思ったが、結構楽しんでいた。興味を持てた最大の理由は何が起こっているかを自分たちで理解し、次何をやるべきかを考えていたからだと思う。その結果思い通りになったらやっぱりと思い、ならなかったら何処が変かを考えて次に進む、という事の繰り返しで面白かった。こういった研究は原子核物理学と言っても古典力学に近いところが多く、イメージを持ちやすかった事も大きな要因だと思う。

この頃の江尻先生のグループには優秀な方が多く集まり、非常に活気があった時期だった。当時のスタッフで東大教授になった方が2人もいるし、他にもその後の原子核物理学の重鎮となった方々が多く出ている。その中にいると、もちろん優秀さはある程度分かるのだが、雲の上の人という感じではなく、普通の人と思っていた。気がついたらそういった環境で結構鍛えられていたのだと思う。また研究室の雰囲気は非常に自由だった。ミーティングは自分の提案を自由にして議論する場だったし、教授の批判もスタッフの間で結構行われて、それが自然と耳に入っていた。しかし結局は皆研究に向けて協力していた。当時の雰囲気は理想に近いと思うので、出来れば再現したいが、難しい。

博士の学位論文は高エネルギーのγ線検出器(HERMESと呼んでいた)で書いた。研究を始めるときは、γ線は電磁相互作用だけを行う非常に素性の分かったプローブであるので、原子核の性質の解明に適しているとのふれこみだった。江尻先生が大型科研費を獲得されたので、深く考えずに江尻先生のふれこみに乗せられる形で大型のNaI検出器を作り始めた。それを用いて入射粒子が原子核に吸収されて全エネルギーがγ線に転換する過程を調べ始めた。当時阪大理学部では未だ110cmのサイクロトロンが稼動しており、そこでは陽子が7MeV3He25MeVまで加速できたので、それを利用して実験を始めた。装置はかなりうまく働いたが,研究の方はふれこみとは裏腹になかなかこれが分かるという点が見えてこないので困った。確かにふれこみは良いのだが、実際には主だった簡単な所は既に研究し尽くされていて、残されたテーマは結構複雑で、難しいのである。良く考えてみれば当然のことだろう。

仕方ないので、とりあえず最もエネルギーの高い状態まで励起できる9Be(3He,γ)12C反応を調べることにした。当時のサイクロトロンでは、他で調べられていない研究が可能なのは唯一この反応であった。得られた結果をいろいろ眺めているうちに、約40MeVの励起状態から崩壊する先の分布がE1の巨大共鳴に近い強度分布をしていることに気がついた。当時基底状態からE1で励起すると、行き先のエネルギーと強度の積には和則があって、そのほとんどが巨大共鳴であることが知られていた。この法則はどの状態にも適用できるはずなので、励起状態も同じ様に巨大共鳴をもつとすると、非常に高い励起状態からは行き先に巨大共鳴が見えていることになる。特に陽子ではなく、3Heを用いたので、複合核的な反応が主で、逆の様相が見えたのだろう。そこまで気がついてなんとか博士論文をまとめることが出来た。この話には後日談がある。その後何年かして励起状態の上にある巨大共鳴という研究が結構はやった。江尻先生が当時阪大に滞在していたK. Snover氏が私の研究にヒントを得たと言っていたことを知らせてくれた。今から振り返るとちゃんと論文を書いておくべきだったのかも知れないが、当時は博士論文を書くだけて精一杯で、かつ自分のやっていることが正しいことなのかも自信がなかった。実際仮定しなければならない事が多く、書いていて後ろめたい部分が多かった。しかし今から思えば結構良い点をついていた。結局実力が無かったということだと思う。

 

東工大時代

 大学院を修了して東京工業大学理学部の大沼先生に採用して頂いた。東工大ではバンデグラーフを用いた原子核の研究が進められていた。中重核の構造の研究を行った。原子核の励起状態の性質を解明していくのだが、そのためにまずスピン・パリティを決定するひつようがある。実験的には原子核を励起して、そこからのγ線を測定する。このとき原子核のスピンに空間的な異方性を持たせると、γ線もそれに伴って放出方向によって強度が異なる。それを測定してスピン・パリティを決めていく。原子核を励起するのにバンデグラーフからのビームを用いる。ただエネルギーは低いので、出来ることに限りがある。裏返せば他のものが余り出来ないので、狙いを定めて研究するには可能である限り適していた。

反応で励起された原子核のスピンの異方性はまず反応機構を決めることで決定される。そこからのγ線の角分布の関係はstatistical tensor を計算する事で求められる。この計算は角運動量の群論の知識を必要とし、Clebsh-Gordan係数やRacah係数など複雑な式を扱う必要があったが、非常に有力で適用範囲の広い方法で、ある時期完全にはまってしまうほど面白かった。実際に文献に書かれている方法で計算していって解析的な式を与え、それをプログラムに組んで実験値に対応する数値を出す。それが実験値と対応することにちょっと感動を覚えた。こういった計算方法を学んだことはその後の研究に結構影響を与えたと思う。

 丁度この頃原子核物理の新しい流れに注目する人が増えて来たと思う。それはハイパー核の研究である。原子核の構成要素とすれば陽子と中性子だけだった中に、ハイペロンと呼ばれるストレンジネスをもつ粒子が参加してきたのである。欧州や米国では既に本格的に研究される様になっており、日本でもそういう方向の研究を始めようという機運が高まっていたが、それは紙と鉛筆で出来る理論主導のものであった。基本的には新しいものが好きなほうなので、そういった実験の研究を行いたいと考えるようになり、実験の中心になりつつあった米国に行くしかないと考える様になった。BNLChrien氏に手紙を書いたら、しばらくしてHouston大学のHungerford氏から雇えるとの手紙が来た。何処の馬の骨とも分からぬ、下手な英語の手紙を書いてよこした日本人をなぜ雇う気になったか未だに疑問であるが、とにかくBNLへ旅立つことになった。この時は行く以上は片道切符と思っていた。今より将来が不安定な当時の方が無鉄砲に海外に行く人が多く、どう転んでも雇用はある程度保障されている現代の方がより安定な道を選ぶ傾向にあるのは皮肉だと思う。

 

BNL時代

 BNLはマンハッタンから東に約100kmのロングアイランドの中ほどにある。来て見るとそこは別世界だった。なにもかも裕福だった。細かい事で申し訳ないが、コピーは取りたい放題だったし、ちょっとしたものはストックルームに行けば大抵手に入った。論文を書く時にはデザイナーが図を描いてくれた。研究所の職員はほとんど5時には帰宅するにも関わらず、冷暖房は24時間つけっぱなしだった。どう考えても無駄が多いと感じたが、結構細かくなった最近は、省エネ意識が浸透したというよりは裕福なアメリカの終わりを感じさせる。研究においても高価な装置や回路が多くあり驚いたが、一方で経験がなかったので馴染むのに苦労した。

行ってみると論文で知っていたものと全く違った研究を行っていた。いろいろ説明を受けたが、はっきり言って何の話をしているか全く分からなかった。思えば物理に対する基礎知識がなったうえに英語で説明されたので、分かるはずなかったのである。また現在と違ってインターネットで情報を得るなどという方法もなかったので、論文という形で現れるものと現実に数年のギャップあるのはある意味あたりまえだったともいえる。

 行ったときはハイパー核からのγ線の観測の実験を行っていた。その後すぐにダイバリオンの探索実験に入ることになった。クォークの描像は確立したが、実際にハドロンをどう作るかにはガイドラインがなく、いろんなエキゾチックな可能性が理論的にも実験的にも探索された。この実験のスポークスパーソンのポーランド人はやり手で、他の人を押しのける形でどんどん進めていったが、そのため敵対する人も多かった。どういう訳か結構気に入られ、何でも仕事が私の所に来る様になった。大変だったが、やりがいもあった。しかしこの研究に2年近く費やす事になるとは思っても見なかった。もともとハドロンの物理には微妙な所があるのだが、一見シグナルらしきものが見えるたびにビームタイムの追加が申請され、どんどん延びた。しかし結局はっきりせず成果という形に繋がらなかったのは今でも残念だが、結果の出る研究ばかりでは大発見にはつながらないのでバランスが難しい。

 その次はΣハイパー核の実験を行った。実験の結果の解析法をC. Dover氏に教えてもらって計算した。ただ実験の結果が想定した方向と逆になった。その瞬間にその方法で別の問題を解析しようと提案されて驚いた。私自身は他の事を考えてなかったので断ったが、まさに「君子豹変す」を地でいく人だった。それでもいろんなことを直接学べて非常に良い経験をさせて貰った。

 BNLではセミナーが充実していた。東海岸の研究の中心であるから、一流の大学や研究所から一流の人が話しに来た。たまにはノーベル賞を取った人も来た。私は必ず出席するよう心がけた。更にできるだけ理解したかったのでたいてい質問していた。話が分からないとき、最も良い方法は質問である。ただ話しが難しくて質問の糸口すら見つからないときは困る。こういったときは誰か質問してくれないかと切望していた。素粒子原子核の研究所ではあったが、セミナーで取り上げられるテーマは多岐にわたった。幅広い知識を身につけることが出来ただけでなく、分からない話をいかにして理解するかという技術を身につけることができた。全く分からない話でも興味を持って聞けるようになったのはこのときの経験が大きい。

 ヒューストン大学のポスドクをやっていて、3年を過ぎた所でJ-1 ビザの問題に遭遇することになった。米国で働くにはビザが必要となる。研究等に関係しているとJ-1ビザを取得できる。1年毎に更新する必要があるが、3年目からは自動的に認めてくれなくなる。これは結構法律的に難しく、結局アメリカ人の弁護士に依頼するしかないのだが、ヒューストン大学の弁護士が余り頼りにならなくて困った。BNLの弁護士はその点なれていて、適切なアドバイスをして貰えた。またその時期には次に何処に行こうかといろいろ当たっていた。結果的に阪大に採用して頂けた。大学院を出て8年近くが過ぎて大阪に帰ることになった。米国滞在中に阪神が優勝したときは、日本に帰ることがないと思っていたので、最後のチャンスを見逃したと思っていたが、実際にはその後にもめぐってきた。

 

阪大時代

 大阪に久しぶりに戻ってみると、あらためて住みやすい土地であることを実感した。東京、ニューヨークと運よく世界の大都市に住めた。東京は最も便利な所だが、住みやすい所とは言いがたい。ニューヨークは刺激的な街で、出来ればもう一度住んでみたい。しかし結局大阪が一番と思う。中でも阪大は非常に便利な場所にある。理学部は豊中にあって、空港までモノレールで2駅である。新大阪へも40分程度で行ける。大阪に便利さが加われば、これ以上の場所はない。阪大のロケーションはベストと思われる。

 大阪に着任したころ、丁度ハイパー核の実験的研究を日本で立ち上げる時期だった。KEKには高エネルギー物理学のために建設された12GeVの陽子シンクロトロンがあり、そこではハイパー核研究に必要なπ中間子ビームを得ることが出来た。東大、阪大、東北大で協力して実験装置(スペクトロメータ)の建設を進めていた。結構元気な学生も集まっていた。当時のKEK 12GeV-PSで研究していた若い大学院学生の多くが、現在の日本の素粒子・原子核物理学の中心になっていることは驚くほどである。当時助教授だった私と一緒に実験していた野海氏は今はRCNP教授になって戻ってきたし、福田氏も准教授である。思えば時間が経ったものである。

 

 続く